丘陵の草地での出来事
ある羊飼いの少年
羊飼いの少年が、数いる羊のうち一匹を見失ってしまい、
大切な友、大切な財産を失ってしまったと、
岩肌の剥いた草地で落胆していた。
ずいぶんと方々を探し回ってはみたけれど、
羊は一向に見つかる気配がなかったからだった。
少年は目の前と、胸の奥底が奈落の底のように真っ暗だった。
冷や汗やらがでてくるし、訳のわからない不安に押しつぶされそうで息ができなかった。
そしてほとんど諦めてその場に突っ伏していた。
そこに、預言者と呼ばれているお方が、パール色の着物に杖を携え通りかかった。
肩には編み込んだ肩掛けバックを下げておられる。
「やあ」
そのお方は、少年を見るなり微笑まれた。
しかし少年にはその微笑みが見えなかったが、光が現れたように感じられた。
太陽の方からやってきたので、そのお方の周りが金色に輝いて少年には見えたのだ。
「ミルクを一杯、もらえるかい?」
そのお方はそう言われて岩陰に腰を下ろされる。
少年は乳の張った雌羊を捕まえ、
瓢箪をくり抜いたカップにミルクをたっぷり注いで、そのお方に差し出した。
「いい乳だ」
そのお方はゴクゴクととても美味しそうにミルクを飲み干すとそう言われた。
少年は黙ったまま頷いた。
「ところで、君はとても落ち込んでいるね。もう直ぐ陽も暮れる。そうだろ?」
少年はそんな事を話していいものかとも思ったが、
居ても立っても居られなかったのでこう言った。
「ええ。あ、あのー、ラビ(先生)、実は羊が一匹いなくなってしまいました。
方々探したんだけど、見つからなかったのです」
少年は今にも泣き出しそうです。
「そうか。それで、こんなところで君は辛い思いをしていたんだね」
すると、
そのお方は、にっこり笑うと、
空を遠く見上げ、
フーッと息をお吐きになり、
両手をパンとお叩きになりました。
「OK。ちょっと、ここで待っていなさい。
いなくなった羊を見つけてこよう。
なーに、僕はね、こう言うのは得意なんだ。
いいかい。決してここを離れてはいけない。いいね」
そのお方はそう言って、ウインクをすると、そう言うが早いか、
丘の上を颯爽と消えていくのです。
この時少年は、希望の光が心に満ちてきて、
なんだかもう不安ではありませんでした。
きっとあのお方が見つけてきてくれる。
不思議と心からそう思えたのです。
どれくらい時が経ったでしょう。
西に傾いていた陽も少し影っていましたから、
きっと、だいぶ時間は過ぎていたのだと思います。
遠くから風に混じって、
聞き覚えのある鳴き声と共に、あのお方が戻って来られたのです。
「やあ。待たせたね。随分と遠くまで行ってたよ。
この子は、岩陰で、怖くて怯えて動けなくなっていたんだ」
少年は羊に駆け寄り抱き上げました。
嬉しさが溢れて、
涙が止まりません。
そのお方は少年の傍に腰掛け、
愛おしそうに少年を撫でられこう言います。
「ヤコブよ。この羊はもう君にとっては大切なかけがえのない羊だ。
愛おしくてたまらないだろう。
どこに居ようと、君は、この羊だけは見失うことがない。
そう言う羊だ。
なぜなら、
一度失って、君のもとにこうして戻ってきたのだから」
それだけ言われると、
そのお方は、羊飼いも行かない荒野と呼ばれる方に向かって、
歩いて行ってしまいました。
少年は、お礼の言葉も言えぬままでした。