02 故郷への道 3

帰ろう、故郷へ。

しかし、
ついにその時がやってくる。

金が尽きたのだ。

「そんなはずはない。まだ、その袋や、そっちの調度品の中に…」

弟は酔ってはいたが、身体中から冷や汗が吹き出てくるのを感じた。

朝から取り立ての男達や役人らしき男達が家に押しかけ騒然となった。

「旦那様」

奴隷の男が伏して言った。

「もうこの家には財産はありません」

袋も、調度箱の中にも、金貨一枚、何も入っていなかった。
身体中から、嫌な冷や汗が溢れてくる。
目の前が真っ暗だ。

弟は、男たちに、体を掴まれ、家の外に放り出された。

「ここから立ち去れ!。もう、この家はお前のものではない」

家を売った男が言う。

それから、洗いざらい家の中のものはすべて持ち去られ、
奴隷達も抵当に連れて行かれてしまった。

必死で抵抗したので弟は身ぐるみこそ剥がされなかったが、
残ったのは着ているものと、履いていたサンダルだけになった。

戸口で弟は涙が溢れてきて止まらなかった。

すべてを失ったのだ。

夕方近くになってもどうにも立ち上がることができずにいたが、
それでもどうにか這うようにして近くの市場に向かった。

腹が減って何か食べ物をくれるようにと物乞いをして回ったが、蝿のようにあしらわれた。
それならばと、何か仕事をさせてもらえないかと方々口を聞いて歩いて回ったがとうとう五日、
食べ物を口にする事ができなかった。

行き場を失い、街はずれの井戸辺で水で空腹を紛らわせていたが、
ひもじさと惨めさで体に力が入らなくなっていた。

そこに街の人間からは蔑まれていた豚飼いの夫婦が街から戻って井戸辺にやってきた。
男の方の顔は見覚えがあった。
女の方は白髪交じりの髪が乱れ、歯並びが悪く、鼻の横に大きなイボがあった。

弟は、夫婦になんでもいいから仕事をさせてくれるよう頼み込んだ。

もう捨てるものものない物乞いでしかない弟を哀れに思ったのだろう、
夫婦は良心的そうには見えなかったが、家で豚の世話をさせることにした。

井戸辺から丸一日ほど南の山間の麓に下ると彼らの小さな粗末な家があり、
その裏に壊れそうな豚の屋根だけの小屋と、こじんまりと豚を入れておくために柵が張ってあった。

弟は壊れそうな小屋の一角を使って良いことになった。
が、なんというか、ほとんど、ドロドロとした糞尿の溜まり場だった。

豚の世話は、それほど難しいことではない。
ただ、糞尿の臭いが我慢できなかった。

弟はわずかな畑のものには手を出さなかったが、豚の餌の豆の殻を口で噛みながら空腹を満たした。
他に口にできるものはなかったからだ。

しばらくして、
体力がでてきてから、夫婦の家の近くから枯れ草などを集め、柵の中の土をほぼ入れ替えたりした。
それで、ドロドロした糞尿まみれの土も、いくぶん臭いもましになり、
自分が寝起きする一角も、糞にまみれながら寝なくても良いくらいにはましになった。

そんな日が、随分と続いた。

時折、夫婦は豚を売りに街にでかけ、二、三日家を空けた。

弟はそういう時を見計らって、着ているものを水辺に行って洗った。

服についた糞尿を何度も良く洗い流し、沐浴して、体から匂いが抜けると、幾分気分が良くなった。

弟は、服が乾くまで裸で陽の下でボーッと過ごした。

夫婦は、自分たちの分の食事を割いてまで弟には与えることはなかったが、
弟がやる事さえやっていればそれ以上干渉することもなかった。

もう、寒い季節がそこまで来ていた。

ある日、
弟は、夜空に一際綺麗に輝く星が目に入った。

それは、自分があの時酒に溺れながら故郷の街で見たものとはまるで違ったが、
懐かしさがギュッと込み上げてきて、心が激しく震える思いがした。

そうして、弟は思った。

「私は、天にも、父にも、罪を犯した。もはや父に合わせる顔もない。
しかし、このままここで一生を過ごし朽ちてしまうのが、私の命だというのだろうか・・・」

目を瞑ると心に浮かぶあの幼い日に駆け巡った土地が無性に懐かしく思え、涙が溢れてきた。

ああ、私にはすべてが備わっていたのだ。

弟は自分が何一つかける事がなかったことに、その時、彼は心の底からそのことに気がついた。

戻りたい…

「父に、伏してお願いしよう。私は罪を犯した。
それは決して取り返せはしない。
しかし今一度父の使用人としてせめてお側に置かせていただけるよう」

弟は立ち上がった。

涙が溢れてきて止まらなかった。

豚の餌の豆殻を少し集め布の切れ端に包み、
それだけを持ち、そのまま一路故郷を目指し歩き始めた。

どれくらい経った頃だろうか。

もはや故郷を目指しているのかもわからないほど歩いた頃。
弟は枯れた木の太枝の杖を頼りに、太陽の下をよろめきながら歩いていた。

口も乾き、唇の皮がひどく剥けていた。
どこで落としたのか、片方のサンダルも失っていた。
小さな石が足の皮に刺さり豆がつぶれ酷く剥けた。

ただ、故郷を目指して。

すると、乾いた風が止み、水の匂いがしてくる。
弟は朦朧とする意識の中で懐かしさを感じていた。

見覚えがある土地。

風と土の匂い。

弟は、ようやく戻ってきたのだ。

山間を抜ける街道沿いには小さな草木も生えている。

子供の時によく歩いた道。

そして遠く、陽炎の先にナツメヤシ畑が見えてきた時であった。

遠く、
街道の先から、誰かが駆け寄ってくるのが霞む目に見えた。
両腕を広げて。

弟は自分が呼ばれているようにも感じたが、

もしかするとこれは夢かもしれないとも思った。
自分は、もうとうに死んでいて。幻を見ているだけなのかもしれないと。

魂だけが故郷を目指してきたのだと。

しかし、そうではなかった。

駆け寄ってくれていたのは紛れもなく、長たる父だった。

長には遥か遠くに見えたのだ。道を来る者が、歩いてくるのが、我が子であると。

弟はもうそれ以上歩けなかった。

そうして長の腕の中に倒れこんだ。

長は、喜び溢れた。

「子よ」

長のしわがれた目には涙が滲んでいた。

「父さん。父さん。どうかお許しください。私をお許しください。そして、どうか、どうか、父の使用人としてお側に置いてください」

長はただただ、うんうんと頷き涙した。

やがてすぐに使用人も駆けつけ、弟は抱えられ、かつて飛び出した我が家へと招き入れられた。

長は言った。

「我が子が戻った!いま、まさに長き旅路から生き返り、戻ったのだ。
さあ、なにをしておる皆で祝おう。
今年の初子を屠るのじゃ。
子の身を洗い清め、指輪をはめ、上等の着物を着せてやろう」

長の言葉に家は一気に活気付きます。
誰もが忙しそうに働き始め、湯を沸かすもの、着物を準備するもの、食事の準備を始める者たちです。

弟は、使用人に手伝ってもらいながら薬草をいれたたらいの湯に浸かり、香油で身を清められ、傷ついた体を癒されます。

弟は申し訳なささと恥ずかしさが込み上げてきたが、
故郷に戻ることができ、
家に迎え入れてもらえた事が、本当に嬉しくて涙がとめどなく溢れてくるのだった。

そして、陽が沈む頃には宴が始まった。

そこへ、長兄が畑仕事から戻ってきた。

あまりの騒ぎに、何事かと長兄は腹を立ててしまうのだった。

「家を出ておられた弟様が今日戻られたのです。そこで長が今年の初子を屠られこうして宴をもようしているのでございます」

使用人が長兄に楽しげに語ったものだから、
長兄は余計に腹が立ち、家に入ることを拒んだ。

弟が帰ってきただと!
なにをのこのこと。今更!。
なぜ私が弟のために祝わねばならないのだ!
女どもに現を抜かす為に勝手に出て行って、
財産を使い果たした、あんな奴のために!

長兄が戻った知らせを聞いたのに、
家に入ってこないのは何故かと、長は外に様子を見にやってきた。

「父さん。これは一体どういうことですか!
私は一日も欠かさず、怠けもせず、これまで一生懸命働いてきました。
今日だってそうです。
一度だって父さんの言いつけに背いたことはなかったというのに!
それなのに父さんは、今までどこに行って、何をやっていたかも分からない、
あんな奴の方がいいというのですか!?」

長兄は怒りが収まりません。

すると長は優しい眼差しで、こう言うのだった。

「子よ。
我が子よ。
お前はこれまで私とずっと一緒だったではないか。
そして私のものは全てお前のものだ。
お前は私を継ぐ者。
何一つ欠けることなく私が持つものは全てお前のもの、
お前がそれを受けるのだ」

長は、長兄の傍に座り彼の頭を優しく撫でながらこう続けた。

「しかし、私は、あの子を一度失い、死んだ者と思っていたのに、
生き返り、今日、こうして再び、私の元に戻ってきたのだ。
この喜びをなんとしようか。
言葉で言い表せるような者ではない。
最早、今生では決して会うことはないと思っておった。
こんなことは、なんと辛いことか。
お前にも、分かるだろう。
さあ、子よ。
私の愛する子よ。
共に食し飲み、唄い、この幸せな時を、共に祝おうじゃないか」

父の深い愛がそこにはあった。

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